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高野山の奥之院について調べていると、「弘法大師は今も御廟で瞑想を続けている」という説明によく出会います。亡くなったのではなく「入定」なのだと聞いて、それはどういう意味なのだろう、歴史の記録ではどう書かれているのだろうと気になった人もいるのではないでしょうか。
この記事では、弘法大師の入定について順に紹介します。言葉の意味から835年3月21日の記録、奥之院の生身供、そして2034年の御遠忌まで、順番に見ていきましょう。
弘法大師の「入定」とはどういう意味?
最初に、「入定」という言葉そのものの意味と、高野山でこの言葉がどのような信仰を指しているのかを確認しておきます。
もとの意味は禅定に入ること
「入定(にゅうじょう)」は、もともと「禅定(ぜんじょう)に入る」という意味の仏教の言葉です。禅定とは、心を一つの対象に定めて静かに集中した状態のことで、坐禅や瞑想を思い浮かべると分かりやすいかもしれません。つまり言葉の上では、瞑想の状態に入ることを広く指す表現だといえます。
ところが高野山真言宗でこの言葉が使われるときには、もう少し特別な意味を持っています。御入定1200年御遠忌の公式サイトでは、入定は原義こそ「禅定に入る」だとしたうえで、弘法大師空海については、835年に御入定されてから1200年近くたった今も、高野山奥之院で永遠の瞑想に入っているという信仰そのものを指す言葉だと説明されていました。
総本山金剛峯寺の公式サイトに掲載されたインタビューでも、同じ考え方が語られています。高野山真言宗で「御入定」というと、お大師さまが奥之院で永遠の瞑想に入られたことを指すと捉えている、という説明でした。担当の僧侶の方は、御入定は高野山ではとくにお大師さまが定に入られて私たちを見守ってくださっているという信仰そのものを表す言葉だ、とも話しています。
このように、同じ「入定」でも、辞書的な意味と、高野山の信仰の中で使われる意味とでは重みが違うわけです。一般的な仏教用語として見れば瞑想に入ることですが、弘法大師について語られる場合は、大師が今も奥之院にとどまっているという信仰の表明になっています。
この記事でも、「入定」という言葉を見かけたら、どちらの意味で使われているのかを意識しながら読んでいくと混乱しにくいでしょう。とくに弘法大師の話題では、ほとんどの場合、後者の信仰としての意味で使われていると考えてよさそうです。
資料によって、同じ出来事を指す言葉が違う点も知っておくと役立ちます。国の正史である『続日本後紀』は、空海が亡くなったことを「終」という一字で記していました。一方、御遺告の第一条では、空海自身が「入滅」しようと定めた日、という言い方で3月21日が示されています。入滅は、お釈迦さまや高僧が亡くなることを表す仏教の言葉です。
そして現在の高野山では、2034年の大法会の正式な名前が「宗祖弘法大師御入定千二百年御遠忌大法会」となっているように、公式には「御入定」という言葉が使われています。どの言葉が使われているかを見ると、その資料が歴史の記録として書かれたのか、信仰の言葉として書かれたのかを見分ける手がかりにもなります。
入定留身と弥勒菩薩を待つ誓い
弘法大師の入定信仰を語るときによく出てくるのが、「入定留身(にゅうじょうりゅうしん)」という言葉です。高野山の宿坊寺院の一つである不動院の解説では、入定とは仏道を成就した高僧が肉体をこの世にとどめたまま永遠の瞑想に入ることで、その肉体をこの世にとどめて人々を救い続けることを「留身」と呼ぶと説明されています。
では、なぜ大師はこの世にとどまると考えられてきたのでしょうか。その背景にあるのが、弥勒菩薩(みろくぼさつ)への信仰です。弥勒菩薩は、遠い未来にこの世に現れて人々を救うとされる仏さまで、それまでは兜率天(とそつてん)という天上の世界にいると考えられてきました。
御遠忌の公式サイトには、弘法大師空海は56億7千万年後に弥勒菩薩とともに人々を救済するためにこの世に現れるという遺告を残し、835年3月21日に結跏趺坐(けっかふざ)して大日如来の定印を結び、高野山で静かに入定した、と書かれています。弥勒菩薩が現れるまでの長い時間、大師は高野山にとどまって人々を見守っている、という信仰の筋道が見えてくるのではないでしょうか。
同じ公式サイトでは、大師の言葉として「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」という一節も紹介されていました。宇宙が尽き、救うべき人々がいなくなり、悟りの世界さえ尽きたときに、自分の願いもようやく尽きる、という意味合いの言葉です。人々を救う願いに終わりはない、という大師の誓願が、入定信仰の根っこにあると受け止められてきたのです。
こうした信仰は、四国遍路の「同行二人(どうぎょうににん)」という考え方にもつながっています。不動院の解説によると、お遍路さんの菅笠に書かれた「同行二人」は、いつもお大師さまと二人で歩いているという意味です。奥之院にとどまる大師が、同時に巡礼者のそばにもいるという受け止め方は、入定信仰を身近に感じさせるものだといえるでしょう。
香川県高松市にある高野山真言宗の弘憲寺のサイトで紹介されている御遺告の読み下しにも、自分は目を閉じたのち必ず兜率天に生まれて弥勒菩薩の前に仕え、遠い未来に弥勒菩薩のお供をしてこの世に下ってくる、という趣旨の一節が引かれていました。同じ解説では、こうした信仰から、お釈迦さまと弥勒菩薩という二人の仏のあいだの時代に人々を導く「二仏中間の大導師」として大師を仰ぐ信仰が確立した、とも説明されています。
835年3月21日に何があったの?
次に、835年3月21日の出来事が、どのような資料にどう書かれているのかを見ていきます。弟子に残したとされる遺言と、国の正史の記録とでは、伝え方がずいぶん違っていました。
御遺告が伝える最期の様子
弘法大師の最期を伝える資料としてよく知られているのが「御遺告(ごゆいごう)」です。和歌山県立博物館の解説によると、御遺告には主に「遺告二十五箇条」「遺告諸弟子等」「太政官符案幷遺告」「遺告真然大徳等」の4種類があり、なかでも遺告二十五箇条は、巻末に承和2年(835)3月15日の日付と空海の署名がある、弟子たちへの遺言という体裁の文書です。
奈良国立博物館の解説では、この遺告は入定の6日前にあたる3月15日に門弟へ与えたとされる遺誡で、目前に迫った入定を予示するとともに、寺院の管理や運営まで細かく指示した内容だと紹介されていました。第一条には空海の幼いころからの経歴や、仏教を志した経緯、入唐、真言宗の成立がまとめられています。
その第一条に、自分が入滅しようと定めたのは今年の3月21日寅の刻である、という一文があることがよく知られています。寅の刻はおおよそ午前4時ごろにあたる時刻です。あわせて、弟子たちに悲しんで泣いてはいけないと語りかけ、自分の年齢を62歳と記す内容も伝えられています。
ただし、注意しておきたい点があります。和歌山県立博物館は、遺告二十五箇条は空海の遺言という体裁で書かれているものの、後世に空海に仮託して成立したものと現在では考えられている、と説明していました。奈良国立博物館も、空海本人の著作ではなく、遅くとも10世紀中ごろまでに弟子らによってまとめられたものと考えられ、最古の写本は安和2年(969)の書写本だと紹介しています。
とはいえ、御遺告が軽んじられてきたわけではありません。奈良国立博物館の解説では、成立以降、真言宗の僧侶がよりどころとする規範として権威を持ち、非常に重んじられたとされ、弘法大師信仰の原点ともいえる史料だと位置づけられていました。最期の様子を知る手がかりとしては、こうした成立事情もあわせて読むのがよさそうです。
最期に向けた準備についても、御遺告には記述があります。弘憲寺のサイトで紹介されている読み下しによると、天長9年(832)11月12日から穀物の味を深く厭い、もっぱら坐禅を好むようになった、という内容です。この解説では、弟子たちが心配して食事をすすめたところ、命にはすでに限りがあると答えたという話が『空海僧都伝』に伝わっている、とも紹介されていました。ただし、御遺告そのものの成立事情は先ほど見たとおりなので、これも伝えられてきた話として受け止めておくのがよいでしょう。
続日本後紀に残る国の記録
もう一つの重要な資料が、国の正史である『続日本後紀(しょくにほんこうき)』です。仁明天皇の時代を記録した歴史書で、855年に編纂が始まり、869年に完成しました。その巻第四、承和2年3月丙寅の条に、大僧都伝燈大法師位空海が紀伊国の禅居で亡くなったことが、「終于紀伊國禪居」という短い言葉で記されています。
続いて4日後の庚午の条には、仁明天皇が勅によって内舎人(うどねり)を一人遣わして喪を弔い、喪料を施したことが書かれていました。さらに、淳和上皇の弔書(ちょうしょ)が引用されていて、そこでは空海が「真言の洪匠、密教の宗師」とたたえられています。国家がその護持を頼りにしてきた人物だった、という評価が読み取れるでしょう。
この弔書には、もう一つ注目したい表現があります。禅関、つまり高野山は都から遠く離れているので訃報の伝わるのが遅く、使者を走らせて荼毘(だび)を助けることができなかったのが残念だ、という趣旨の一文です。荼毘は火葬のことなので、正史の記録の上では、空海は火葬されたように読めるわけです。
弔書のあとには、空海の生涯をまとめた文章も続いています。讃岐国多度郡の出身で俗姓は佐伯直(さえきのあたい)、15歳で叔父の阿刀大足に学び、18歳で大学に入ったこと、延暦23年に入唐して青龍寺の恵果和尚から真言を学んだことなどが書かれていました。天長元年に少僧都、天長7年に大僧都となり、紀伊国の金剛峯寺に隠居したとも記されています。
細かい点では、年齢の書き方にも違いがありました。続日本後紀は亡くなったときの年齢を63歳と記していますが、御遺告では自分の年齢を62歳としていて、現在の多くの案内も62歳を採用しています。資料によって数え方や伝え方が異なる例として、覚えておくとよいかもしれません。
同じ巻第四には、亡くなる直前の空海の動きも記録されています。承和2年正月の壬子の条では、大僧都空海が、弘仁14年の詔にもとづいて真言宗の僧50人を東寺に住まわせて修行させたいと願い出て、その費用として封戸200戸を充ててほしいと奏上し、許されたことが書かれていました。亡くなる2か月ほど前まで、東寺での真言僧の育成に心を配っていた様子が、正史からも読み取れるのです。
入定信仰はいつ広まったのか
正史に「亡くなった」と書かれ、火葬の可能性まで読み取れるのに、なぜ「今も瞑想を続けている」という信仰が広まったのでしょうか。この点は、歴史の研究でも長く関心を集めてきました。Wikipediaの「入定」の項目では、弟子の真済が書いたと伝わる『空海僧都伝』では病死とされ、続日本後紀によれば遺体は荼毘に付されたようだ、と整理されています。
同じ項目によると、現存する資料で空海の入定について述べた最初のものは、亡くなってから100年以上たった康保5年(968)に仁海が著した『金剛峰寺建立修行縁起』とされています。そこでは、入定した空海は四十九日を過ぎても顔色が変わらず、髪やひげが伸び続けていた、という内容が書かれているそうです。
御遺告の成立が10世紀中ごろと考えられていることもあわせると、入定の信仰は、空海が亡くなってからしばらくたった平安時代の中ごろにかけて、文章の形で整えられていったと見ることができます。歴史の記録としての「死去」と、信仰としての「入定」は、もともと別々の層から生まれてきた考え方だといえるでしょう。
高野山の公式の説明も、この違いをふまえた書き方になっています。高野町観光協会の案内では、延喜21年の弘法大師の諡号のあと、弘法大師空海は奥之院に身をとどめ、人々を救済し続けるという信仰が広まっていった、と説明されていました。「信仰が広まった」という表現からは、歴史上の出来事として断定するのではなく、信仰として受け継がれてきたことを伝えようとしている姿勢が読み取れます。
歴史として確かめられることと、信仰として大切にされていることを分けて理解しておくと、どちらの話もすっきり受け止めやすくなるはずです。奥之院を訪れるときは、歴史の知識を持ちつつ、信仰の場としての空気を尊重する、という向き合い方がよさそうです。
入定の説がいつごろから語られていたかは、100年ほど前から研究の対象になってきました。京都大学の学術誌『史林』に掲載された論文「弘法大師の入定説に就いて」では、平安時代後期の学者である大江匡房が著した『本朝神仙伝』に、大師が56億7千万年ののちを待っているという説が見えることが取り上げられています。平安時代の後期には、入定の信仰が貴族の書き物にも登場するほど知られていたことがうかがえるでしょう。
「弘法大師」の名前と御衣替の伝承
今では当たり前のように使われている「弘法大師」という名前は、入定から86年後に贈られたものでした。名前が贈られたときの伝承と、その伝承に由来する御衣替の法会を見ていきます。
921年の諡号と観賢の伝承
高野町観光協会の公式サイトによると、空海が入定してから86年後の延喜21年(921)、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号(しごう)が贈られました。諡号とは、亡くなった高僧や貴人に後から贈られる名前のことです。弘法大師という名前は、空海が生きていたころに名乗っていたものではなかったわけです。
この諡号を朝廷に願い出たのが、東寺の長者で高野山の座主もつとめた観賢(かんげん)だと伝えられています。真言宗の寺院による解説では、醍醐天皇は観賢の願いを聞き入れて諡号を許し、あわせて檜皮色(ひわだいろ)の新しい衣を贈ったとされていました。檜皮色は、ヒノキの樹皮のような赤みを帯びた茶色を指す言葉です。
観賢をめぐっては、よく知られた伝承があります。観賢が奥之院の御廟を開いて大師を拝もうとすると、はじめはもやがかかって姿が見えず、深く祈るうちにもやが晴れて、入定した大師の姿を拝むことができたという話です。観賢は伸びた髪を剃り、新しい衣を着せてさし上げたと伝えられています。
この伝承には続きもあります。一緒にいた弟子の淳祐(しゅんにゅう)には大師の姿が見えなかったため、観賢がその手を取って大師の膝に触れさせると、膝は温かくやわらかく、よい香りがしたというのです。その香りがあとまで消えなかったという話は、「匂いの聖教」として石山寺に伝わる写経の由来としても語られてきました。
こうした話は、あくまで信仰の中で語り継がれてきた伝承として受け止めるのがよいでしょう。歴史の記録として確かめられる事実は、921年に醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られたことです。そのうえで、観賢の伝承は、入定した大師が今も御廟にとどまっているという信仰を支える物語として、大切にされてきたのだと考えられます。
真言宗の寺院による解説では、このときの使いの顔ぶれも紹介されていました。諡号を伝える使いには少納言の平維助(たいらのこれすけ)が、檜皮色の御衣を届ける使いには大納言の藤原扶閑(ふじわらのすけやす)が立てられ、御廟への使いをつとめたのが観賢だったとされています。朝廷の正式な使いを立てて名前と衣が贈られたという点からも、この諡号が当時の朝廷にとって重要な出来事として扱われたことが分かります。
正御影供で御衣を納める行事
観賢の伝承に由来するといわれるのが、大師の衣を新しく改める御衣替(おころもがえ)の儀式です。JRおでかけネットに掲載された総本山金剛峯寺主催の行事案内によると、高野山奥之院では毎年3月21日に燈籠堂で「正御影供(しょうみえく)」が行われ、2026年は午前9時からと案内されていました。
この法会では、お大師さまが時の天皇から下賜された「檜皮色の御衣」が燈籠堂に運ばれ、加持されたあとに、伽藍の御影堂の内々陣に奉納されると説明されています。新暦の3月21日という日付は、大師が入定した日にちなんだものです。ここで「御影供」の読み方は「みえく」で、高野山では御影堂も「みえどう」と読むならわしがあると紹介されていました。
御衣を仕立てるのは、高野山の塔頭寺院の一つである宝亀院です。高野町観光協会の寺院紹介によると、宝亀院の本尊の十一面観世音菩薩は弘法大師作と伝わる重要文化財で、別名を「お衣観音」といいます。御衣替の儀式では、宝亀院で仕立てた御衣を本尊の前で加持してから奥之院に奉納する、と説明されていました。
御影供という法会そのものの始まりについても見ておきましょう。仏教辞典を引用した真言宗の寺院の解説では、正御影供は延喜10年(910)に東寺の灌頂院で観賢が始めたもので、のちに高野山や仁和寺など真言宗の寺院で行われるようになったとされています。高野山では、天喜5年(1057)に明算が執り行ったのが始まりとも紹介されていました。
なお、3月21日に行われる正御影供とは別に、旧暦に合わせた法会もあります。こちらは次の章で、毎月21日の縁日の話と一緒に取り上げますね。日付が2つあることを知らずに出かけると、思っていた法会と違った、ということも起こり得るので、参拝の前には日付と会場を確かめておくと安心です。
2026年の正御影供の案内では、主催は総本山金剛峯寺で、問い合わせ先は金剛峯寺の法会課(代表電話0736-56-2011)とされていました。会場までは、南海電鉄の極楽橋駅からケーブルカーで高野山駅へ上がり、バスで「奥の院前」まで行ってから徒歩15分ほどと案内されています。ただし、この案内は2025年12月25日時点の情報とされているので、翌年以降に出かける場合は、最新の日程や時間をあらためて確認してください。
奥之院の御廟と毎日の生身供
入定した大師がとどまっているとされる場所が、奥之院の弘法大師御廟です。御廟までの道のりと、今も毎日続く生身供、そして参拝のマナーを順に見ていきます。
一の橋から御廟まで続く参道
奥之院は、壇上伽藍と並ぶ高野山の二大聖地の一つです。高野町観光協会の案内によると、入口の一の橋から弘法大師を祀る御廟までは約2kmあり、千年杉が茂る参道には、苔むした供養塔や墓石が並んでいます。その数は20万基を超えるといわれていて、皇室や貴族、各宗派の開祖、戦国武将、江戸時代の大名、庶民まで、さまざまな人々の供養塔があると紹介されていました。
ただし、数については資料によって幅があります。環境省の「かおり風景100選」の紹介では、参道周辺には40万基といわれる墓碑が並び、杉の巨木林は約6haの規模だと書かれていました。どちらも正確に数えた数字ではなく、それほど多いという目安として受け止めておくのがよさそうです。
参道には3つの橋があります。高野山宿坊協会の案内によると、最初に渡る一の橋は正式には大渡橋(おおわたりばし)といい、大師が人々をここまで送り迎えしてくれると言い伝えられてきました。参道の中ほどにある中の橋は正式には手水橋(ちょうずばし)と呼ばれ、平安時代にはこの場所で身を清めていたとされています。
3つ目の橋が御廟橋です。高野町観光協会によると、この橋を渡るとお大師さまの御廟の霊域になります。橋板は36枚で、橋全体を1枚と数えて合計37とし、金剛界の37尊を表しているそうです。これは、奥之院が金剛界の浄土であるという信仰に基づいたものと説明されていました。
和歌山県の公式観光サイトによると、高野山駅前からバスで約16分の「奥の院前」バス停から、徒歩で約11分とされています。一の橋から歩く場合は、参道の距離が約2kmあるので、往復の時間に余裕を持って計画したいところです。燈籠堂の開堂時間は6時から17時と案内されていますが、施設の情報は変わることがあるため、出かける前に最新の案内を確認しておきましょう。
高野町観光協会の案内では、具体的な名前も挙げられていました。法然や親鸞といった各宗派の開祖、上杉謙信、武田信玄、織田信長、伊達政宗、豊臣一族などの戦国武将の供養塔が、宗派や身分を超えてお大師さまに寄り添うように並んでいるそうです。芭蕉や与謝野晶子、高浜虚子、山口誓子といった著名な歌人や俳人の碑もあると紹介されています。かつての敵同士の供養塔が同じ参道に並んでいる点も、奥之院が「日本人の総菩提所」とも呼ばれる理由の一つといえるでしょう。
毎日2回届けられる生身供
奥之院で今も毎日続けられているのが「生身供(しょうじんぐ)」です。高野町観光協会の案内では、御廟では弘法大師が今も深い瞑想を続け、人々を救済し続けているという信仰があり、そのためお大師さまに二度のお食事をお供えする生身供が、およそ1200年もの間、毎日続けられていると説明されていました。
時間については、高野山の寺院の一つである持明院の「はすの会」が、毎朝6時と10時30分に、御廟橋の手前にある御供所(ごくしょ)から燈籠堂へと運ばれていくと紹介しています。入定のあとから現在まで、約1200年のあいだ一日も欠かさず続けられてきた儀式だという説明も添えられていました。
食事を運ぶのは、維那(ゆいな)と呼ばれる役目の僧侶です。不動院の解説では、御供所で調理された食事が白木の箱に収められ、維那によって御廟まで運ばれると書かれていました。風雨が激しくても、雪が深く積もっても欠かされたことはないとされ、お大師さまが今も生きているという信仰を象徴する大切な儀式だと位置づけられています。
一方で、御廟の中で実際にどのようなことが行われているのかは、外からはうかがい知ることができません。Wikipediaの「入定」の項目でも、霊廟内の様子は維那以外がうかがうことはできず、維那をつとめた人も他言しないため、部外者には分からないままだと書かれていました。分からない部分を想像で補わず、そのまま受け止めておくのが誠実な姿勢でしょう。
なお、生身供という名前の行事は、京都の東寺でも行われています。同じ名前でも、高野山の生身供は奥之院の御廟の大師に食事を届ける儀式で、東寺の生身供は西院の御影堂で大師にお供えをする法要です。場所や参拝のしかたが異なるので、調べるときはどちらの話なのかを確かめてから読み進めると混乱しません。
生身供の行列は、御廟橋の手前にある御供所から燈籠堂へ向かいます。御供所は奥之院の納経所も兼ねていて、和歌山県の公式観光サイトによると、受付時間は夏季(5月から10月)が8時から17時、冬季(11月から4月)が8時30分から16時30分です。一方、燈籠堂の開堂は6時からとされているので、朝6時の生身供は、ちょうど燈籠堂が開く時刻に行われていることになります。早朝に参拝する場合は、御供所の受付がまだ開いていない点に注意しておきましょう。
御廟橋から先で気をつけたいこと
奥之院を訪れるときに、とくに気をつけたいのが御廟橋から先のマナーです。高野町観光協会の参拝作法の案内では、御廟橋から先は霊域で、橋の前で脱帽し、合掌一礼して渡るよう案内されていました。写真撮影はここから禁止で、スマホや携帯の電源もオフにするよう求められています。参道は左側通行だそうです。
撮影については、同じ案内の別のページでも、奥之院では御廟橋から先は弘法大師を祀る聖域となり撮影禁止で、撮影できるのは橋を渡る手前までだと説明されていました。また、許可なく僧侶にカメラやスマホを向けることもできるだけ控えるよう呼びかけられています。生身供の行列を見かけても、写真に収めようとせず、静かに見送るのがよいでしょう。
燈籠堂に着いたら、塗香(ずこう)で身を清めてから御廟に向かって礼拝します。御廟では、左右にロウソクを1本ずつ、線香をひと束ずつお供えしたあと、正面で一礼し、左右の空いているところでお参りするという流れが案内されていました。般若心経と「南無大師遍照金剛」を唱えるとさらに丁寧だとされ、大声を出さず静かにお参りするよう求められています。
御廟橋のたもとには、水向地蔵(みずむけじぞう)と呼ばれる仏さまたちが並んでいます。地蔵菩薩をはじめ、不動明王や弥勒菩薩、観音菩薩などが玉川沿いに立ち並び、御廟にお参りする前に水を手向ける風習があるそうです。先祖の冥福を祈るとともに、御廟へ向かう前に自分の心身を清める意味もあると説明されていました。
帰り道にも作法があります。高野町観光協会によると、お参りが終わって帰る際も、御廟橋の前の同じ場所で一礼するのがならわしで、大師がここで出迎え、見送りをしてくださると伝わっているそうです。行きと帰りの両方で一礼する、と覚えておくと、慌てずにお参りできるのではないでしょうか。
燈籠堂の時間についても、和歌山県の公式観光サイトに案内がありました。開堂は6時から17時、地下法場の参拝は6時から16時45分までで、供養やご祈祷の受付は8時30分から16時30分、予約は不要とされています。また、元日の0時から2時ごろ、8月13日の萬燈供養会の19時から21時、10月1日から3日の萬灯会の19時から21時には、燈籠堂が再び開かれるそうです。夜の奥之院は足元が暗くなるので、こうした日に訪れるときは明かりの用意をしておくと安心でしょう。
毎月21日の縁日と2034年の御遠忌
入定の日にちなんだ行事は、年に一度だけではありません。毎月21日の縁日と旧暦での法会、そして50年に一度の御遠忌について見ていきます。
毎月21日と旧正御影供の日付
弘法大師にゆかりのある寺院では、毎月21日を大切な日としています。高野町観光協会の年間行事の案内には、弘法大師空海が奥之院に入定したのが旧暦の3月21日で、毎月21日は「お大師さまの日(御縁日)」だと書かれていました。真言宗の寺院の解説でも、毎月21日には弘法大師の御影を掲げて報恩の読経をする月並の御影供があると紹介されています。
高野山では、21日の前夜を「お逮夜(おたいや)」と呼び、その夜に一の橋から御廟までを提灯のあかりで参拝する「お逮夜ナイトウォーク」が高野町観光協会によって午後7時から案内されています。21日当日には、大師教会の大講堂前で報恩高野市が午前10時から開かれ、大講堂では大数珠繰り祈願会も行われると紹介されていました。
もう一つ知っておきたいのが、旧暦の3月21日に行われる「旧正御影供(きゅうしょうみえく)」です。金剛峯寺の案内によると、旧正御影供は、お大師さまが奥之院に入定された旧暦3月21日に、日ごろの加護に感謝して報恩の誠を捧げる法会とされています。旧暦に合わせるため、毎年日付が変わる点に注意が必要です。
2026年の旧正御影供は、5月6日が御逮夜、5月7日が当日でした。御逮夜には萬燈萬華会が17時から、御逮夜法会が19時から御影堂で行われ、法会のあとには御影堂の内拝の案内があったそうです。内拝には整理券が必要で、配布は16時30分から20時30分までと案内されていました。翌7日は、奥之院の燈籠堂で9時から、伽藍の御影堂で13時から法会が執り行われています。
このように、入定の日にちなむ法会は、新暦の3月21日の正御影供、旧暦の3月21日の旧正御影供、そして毎月21日の縁日という3つの形で続いています。参拝を計画するときは、新暦なのか旧暦なのか、会場が奥之院なのか伽藍なのかを確かめておくと、思い違いを防げるでしょう。
じゃらんnetに掲載された金剛峯寺提供の案内によると、当日の伽藍の御影堂では、お輿に乗った法印御房が僧侶とともに金剛峯寺から御影堂まで行道し、そのあとに裏千家の献茶式と華道高野山による献華式が行われるそうです。また金剛峯寺の案内では、2026年の御逮夜に御影堂を内拝した人向けに、限定の御朱印が1枚500円で数に限りがあるとして用意されていました。大伽藍への浴衣での参拝は遠慮するよう求められている点も、出かける前に知っておきたいポイントです。
2034年に迎える1200年御遠忌
入定から数えて50年ごとに行われる大きな法会が「御遠忌(ごおんき)」です。金剛峯寺の公式サイトのインタビューでは、御遠忌は宗祖や特定の高僧の功績をたたえるために50年に一度行う大法会で、高野山真言宗ではお大師さまが入定されてから50年ごとに御遠忌大法会を行ってきたと説明されていました。
次に迎えるのが、令和16年(2034年)の「宗祖弘法大師御入定千二百年御遠忌大法会」です。御遠忌の公式サイトによると、開白は2034年4月2日、正当日の旧正御影供は5月9日、結願は5月21日で、50日間にわたって執り行われます。会場について公式サイトでは、奥之院燈籠堂において行うと案内されていました。
インタビューでは、御遠忌などの大法会では四大法会が行われると紹介されています。舎利会(しゃりえ)、仁王会(にんのうえ)、華供(けぐ)、奥之院通夜行道の4つで、このうち舎利会、仁王会、華供の3つは伽藍で行うとのことでした。前回は1984年(昭和59年)の1150年御遠忌で、そのときから使われている「生かせいのち」というスローガンが、今回も継続して使われる予定だそうです。
記念事業も進んでいます。御遠忌の公式サイトのスケジュールでは、奥之院燈籠堂の改修が2025年8月末に完了し、霊宝館の新設・改修が計画中とされていました。インタビューによると、霊宝館は大正10年に完成した建物で、開館から100年がたって老朽化が進んでいるため、改修が計画されているそうです。
ただし、2034年の御遠忌の具体的な法会の内容は、インタビューの時点ではまだ発表されていないと説明されていました。日程は決まっているものの、一般の参拝者がどの法会にどう参加できるのかといった詳細は、今後の発表を待つ必要があります。訪れたい人は、金剛峯寺や御遠忌の公式サイトのお知らせを定期的に確認しておくとよいでしょう。
前回の様子は、御遠忌の公式サイトで『弘法大師御入定御遠忌紀要』の記録として紹介されています。1984年の大法会は4月1日の奥之院での開白法会に始まり、5月20日に結願を大師の御廟前に報告して終わりました。このとき舎利会は、諸事情によりおよそ100年ぶりの執行になったと記されています。その後の50年のあいだに、高野山は2004年にユネスコの世界遺産に登録され、2015年には開創1200年の節目を迎えたことも、同じページで振り返られていました。
まとめ
弘法大師の入定について、この記事で見てきたポイントを振り返ります。
- 入定のもとの意味は禅定に入ることで、高野山では大師が今も奥之院で瞑想を続けているという信仰を指す
- 御遺告は835年3月15日付の遺言の体裁をとるが、10世紀中ごろまでに弟子らがまとめたものと考えられている
- 正史の続日本後紀は3月21日に空海が亡くなったと記し、淳和上皇の弔書には荼毘に触れた一文がある
- 921年に醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られ、観賢の伝承は御衣を奉納する正御影供につながっている
- 奥之院では毎日2回の生身供が続き、2034年4月2日から50日間、1200年御遠忌大法会が予定されている